まず述べておかなくてはならないこと。
集会の設営には、多くの先生方のご尽力があります。
集会の設営は本当に大変です。
本投稿は、これを否定する趣旨ではありません。
あくまでも、コンセプト的な部分についての自分の考えですから、誰にも強制するつもりもないし、共感も必要ないと思っています。

ただ、このまま漫然とやってもダメですよ、ということがいいたくて、本投稿を書いています。

今日は憲法記念日。
各地で弁護士会が憲法集会をしています。

私は、「市民集会」というもののコンセプトや効果(費用対効果も)に懐疑的な見方をしていて、その旨を、弁護士会の月報の「憲法リレーエッセイ」に書いたことがあります(別添の写真がその記事)。
これは、正直なところ、批判です。市民集会のあり方について、内向きになっていて、本当の一般市民に向けたアピールに、ちっともなっていないからです。
だから、憲法集会には、行ってみたい気もしますが、仕事を差し置いて行こうという気持ちにまでは至りません。

憲法が大切だ、という割には、私らの親玉組織である日弁連・弁護士会は、「司法改革」というものを「一体となって実現しよう!」と声高らかに推し進めているようです。
そして、日弁連・弁護士会は、司法改革を進める理由として「『法の支配』をあまねく実現する」ことを挙げています。

しかしながら、

ここでいう「法の支配」とは、しかるべき政府の会議体などの言動を見ていると、
「国が決めた法律・政策を、躊躇なくどんどん推し進めるぞ!
→そのために、これを「守らせる」役目としての法曹(裁判官・検察官・弁護士)を増やすんだ!!」
ということにしか感じられません。

(たとえば、「司法改革」の象徴のひとつともいうべき、裁判員制度の推進っぷりも、それとパラレルに考えられるでしょう。あんなの、一般市民に「ご協力を」といいつつ、形式的には強制です。)

しかし、このときの「法の支配」の意味って、「法の支配」の本来の定義である
「専断的な国家権力の支配を排斥し、権力を法で拘束することによって、国民の権利・自由を擁護することを目的とする原理」
とは、ずいぶんかけ離れています。
もっといえば、

「国民に法律や政策を押し付ける」

という、憲法がもっとも忌み嫌うことを正当化するロジックとして使われているのです。
これは、「法の支配」の誤用との謗りを免れないと考えます。


このように、日弁連・弁護士会は、
・「憲法集会」をして憲法の重要性をアピールする一方で、
・「法の支配」という、憲法のコアとなる法理につき、司法改革を推し進めようとする際に、誤用(それも、「憲法が最も忌み嫌うことを正当化するロジックとして」)している。

そういう関係もあって、日弁連・弁護士会が「憲法」といっても、正直、私は、こんな大事なところで間違っていることに気づいていないのに、表面的に(もなっていないようにも感じることもありますが)護憲とかいわれてもなあと感じるのです。

これが、素人さんが誤用しているなら、やむを得ないと思います。
そうではなく、プロの弁護士の集団、それも選りすぐりのトップエリートの先生方が率いる日弁連・弁護士会で、そういう誤用を修正しきれていないところが、残念なのです(といっても、どう修正すりゃいいのか、という手続上・技術上の問題はあります。そもそもそういう「法の支配」の使い方を始めた時点で修正すべきだったのでしょうね)。

そもそも、「何が何でも憲法は改正まかりならぬ!」で来た結果、憲法の中身についての議論が熟さず(いわば封殺状態)、それで国民の意識の高まりがないまま、理解が不十分なまま、現在の危機的状況を迎えてしまったといっても過言ではないとも思っていて、その戦犯はある意味、「護憲」をマジックワードに掲げてきた勢力にあると思っています(日弁連・弁護士会もその一因だと理解している)。
が、この「中身の問題」以前に、「法の支配」の使い方が誤っている時点で、どうも説得力がなあ、という感が否めないのです。